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先生

私はこれまで多くのすばらしい恩師に教えをいただいてきました。

今、教えていただいているお茶の先生は、仕事と家庭でなかなかお稽古に多くの時間をとれない私にも、惜しみなく、そして厳しく教えてくださいます。また、このような私でも、お茶を続けていけるように、お心遣いをくださいます。

学生時代にお世話になった先生は、だいぶご無沙汰を重ねているにもかかわらず、先日、友人が執筆した専門書をお送りしたところ、その特徴のある個性的な字で、便せん8枚分の詳細な批評を送ってくださいました。体調がすぐれない日々が続いています、という近況を、2~3年前にいただいたのですが、きっと、それをおして読んでくださったのだろうと思います。

学生時代、そして社会人になってからも、多くの先生に教えていただいてきましたが、何年経っても覚えていてくださるのは、ほんとに驚きです。

今日は、公私ともにお世話になった恩師とのお別れの会があります。

しばらくぶりに、先生のお話をお聞きすることとなります。

それは楽しみなのですが、お別れするのはさびしいことです。

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コメント

「恩師」と呼べる師が存在することは誇りですね。

 私事で恐縮ですが、教員をしておりましたので、
多くの「学校の先生」と言われる人々を知っています。
私の知る限りにおいて、それらの先生方は、
多くがかつての子どもたちから「恩師」と呼ばれ、
それぞれも「恩師」の自覚をしているように思います。
ところが、かつての「教師と子ども」の関係、
あるいは、それぞれの教師が実践してきた教育などを、
厳密に考えてみますと、
私自身をはじめ、
必ずしも「恩師」という言葉に
ふさわしい教師ばかりではないのです。
それが、いつの間にか「恩師」になってしまうのは、
「子どもが成長して、
恩師と言えない部分に目をつぶって、
恩師と呼べる部分だけを見ることができるほどになった」
ということがあると思います。
「恩師」ははじめから存在するのではなく、
その先生を「恩師」と認めるほどに成長した子どもによって、
生み出されることになります。
ですから、
私は「教え子」という言葉がなかなか使えません。
子どもが自らを導いてくださった先生を
「恩師」と呼ぶのはいいでしょう。
でも、先生がかつての担任した子どもを「教え子」と
呼んでいいのかどうか。
「ボクは、あなたに『教え子』と呼ばれたくない。」
といういうこともありますからねえ。

「恩師」と呼べる人がいることは、
あなたの誇りです。

投稿: 閑人 | 2009年2月12日 (木) 17時36分

コメントありがとうございます。
職場や家庭などでも、「教える側」・「教えられる側」という立場がそれぞれあるわけですが、見かけ上、教えている立場だからといって、それが一方的なものだとは、私は思いません。私も、後輩に教えたりする場合がありますが、自分自身が非常に勉強になることばかりですし、また、自分の子供に対しても、同じことがいえます。
職場としての「学校」というものを、私は知りませんが、「先生」だけで学校が成り立っているわけではなく、「子供」や「親」「地域社会」があって、成り立っていると思います。相互で啓発しあったり、協力したりすることが大切だと思います。

投稿: miho | 2009年2月13日 (金) 08時57分

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